終戦記念日に…
「流れる星は生きている」(藤原てい著)の本の話題の際に、実は私の父親も満州からの引き揚げ者で、似たような辛い体験からか、その時の話しを本人から聞いたことがないと書きました。
昨日、実家に日帰り里帰り?しました。思い切ってこちらから聞いてみました!
「いやぁ、引き揚げは大したことなかったよ。」と、こちらが呆気に取られるほどの返答でした。
何でも祖父は満州鉄道の通信(電話?)のインフラ整備の仕事をしており、肩書きは工場長だったらしく、現地では比較的裕福な暮らしをしていたらしいのです。
終戦を察知した祖父の所属部署の一行は、北京の近くで配属されていたこともあり、著書とは反対廻りで(朝鮮半島は通らず)、定かではないのですが、上海辺りの港から帰国したとのことです。
ただし、帰国してからがそりゃ~そりゃ~大変だったとのことです。一家8人(内、幼児が3人)が食べていくことに必死だったとのことです。
どうやって生きていたの?と聞くと「闇市で食いつないでいた。」と言ってました。当時の法には触れることかもしれませんが、生きるためです。もちろん止むを得ないです。
山梨の祖母の実家に身を寄せた家族は、闇市には祖父とその長男、次男、そして三男(私の父)の4人で、沼津の親戚の家で野菜を沢山仕入れ、そして駿河湾でドラム缶に海水を入れて火をかけ、蒸発させて塩を作り、それらを担いで東京へ向ったとの事です。
東海道線は蒸気機関車で、鮨詰め状態の汽車には、石炭の貨車の上にも乗って行ったと言っていました。
闇市に着いてそれらを売っていると、取締りが回ってくるのだそうです。するとみんな一斉に散り散り逃げるらしいです。いつも一番小さい父だけが、そこに取り残されたのですが、実はそれが作戦で、時間が経過すると子供だから許してくれるのだそうです。
それを遠巻きに見ていた他の3人は、ほとぼりが冷めた頃に戻ってくるとか… 折角仕入れた野菜や塩は?と聞くと、当然没収されたらしいです。
今の幸せは誰がもたらしてくれたのか?
何不自由のない今の暮らしや、世の中は?
当時の日本人や父や母や祖父母に感謝だ!
終戦記念日に思う。
過去の過ちは繰り返してはならない!!
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