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2010年3月 4日 (木曜日)

自由

約1年勤めた社員が退職することになりました。基本的に自分の人生は自由なので、次でがんばってもらいたい。12月に彼に以下のことを話しました。

「本気で働いているかい?レポートや発言や勤務態度を見ていると、本気とは思えない。しばらく自分を見つめて、FCCで生涯本気で働く気持ちがあるというなら、その時握手しよう。それからは一生懸命働きな。でもその気がないなら、うちにいることは自分にとっても不幸だぞ」って。

2月1日 「別のところで働きます。」って言ってきました。ガンバリな。です。私は社員に色々な話しをします。会社としても色々な活動をします。でも合わない場合もあります。

人が10人いたとしたら10人と合うわけないです。だから辞める人間もいます。別のところで修行しなよ、ってことです。残っている社員は、うちを選んだんだからうちで修行です。

当然私も、うちで生涯仕事してくれる社員を選ぶ努力をし、その社員は辞めさせない努力をします。でもどこに行っても修行です。どこに行って修行するのも自由です。

人はすべて自由です。楽しいところや自分が好きなところを選ぶ権利がある。縛りは一切なしです。当社では一応念書を取ります。機密事項の漏洩防止や技術やノウハウを身に付けてライバル会社へ行くことの阻止もありました。

過去にそれ目当てで入社した輩がいたからです。でも今はどうぞ!同業者へ行ってもいいし… 自由です。うちのお客様に対する心が本気で分かった上で他社へ行ってもらえば、皆が良くなるし。

自由で思い出したんで、話しが少し飛びますが、私の間違った持論を言います。私の考えなので、人とは違います。でも自分の考えなので、こいつ間違ってるなぁ~ってことでお許し下さい。

最近、武士道回帰みたいな風潮があります。やたらと皆さんそのようなことをブログなどに取り上げています。先の大河ドラマでの上杉もそうでしたが、『義』についても語られます。

一宿一飯の恩義や礼儀の「義」と『義』は違うと、私は考えます。人は基本的に自由で、楽しく幸せになるために生まれて来たと思っています。

環境が変わったり、立場が変わったり、考えがあったりして、人は出会いがあったり、別れがあったりします。それは自分が自由に選ぶこともできます。誰に拘束される必要もありません。

ただし、そこには礼「義」や一宿一飯の恩「義」が存在します。一日でもお世話になったところの悪口を言わないとか、しっかり挨拶をするとか、その年ぐらい年賀状を出すとか…

そんなのは当たり前の「義」です。これも出来ない奴がいます。でも『義』は違う。私が思う『義』は、上手く話せないけど長岡の河井 継之助の伝記を読むと、これが本来の『義』なんだろうなって思う。

竜門冬二や池波正太郎も書いていますが、私はもちろん「峠」がいい!司馬遼です。河井継之助は‘人物’でした。一国を動かすことが出来るほどの器です。

しかし彼は長岡に生まれ家老になります。その立場を終生貫きます。彼にとっては狭い藩の執政である『義』を貫いたことになります。最後まで長岡の民だけを考え生きていきます。詳しくは読んでみてください。

我々が軽々しく(でない場合もありますが、お許しください)『義』と言っているもは、本当は「義」で、『義』とは生涯命がけで貫くものであることが分かります。これが忠義です。

話しが飛んですみません。だから本来自由であるはずの‘人’は「義」と言う呪文で縛ってはいけない。渡世ではないんだから… ただし、礼儀はあるぞって事です。

今回送別会は会社としては行いません。3年くらい勤めてくれて初めて会社に貢献してくれます。1年はお互いにまだ見極め段階です。そして教育段階です。

やるならば有志で個人的にやってください。ただし私も簡単なセレモニー的なことは用意しています。

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